エッセー

『勝った 勝った 甲子園に行ける』  有田 修三(昭45卒)

 泣くまいと思っても、涙が止まらなかった。1969年、昭和44年の夏。バスの中で私は泣きじゃくった。悲しい涙・・・、いや違う。うれしくて、うれしくて。そして高校生ながら、自分の中での達成感に、私はそれを涙で表現するしかなかった。

 夏の甲子園出場への最後の関門。西中国大会決勝で島根の江津工とぶつかった。バスで山口を出て、島根に向かう。果たして帰りのバスは喜びがはじけるのか、それとも悲しみの移動になるのか。神のみぞ知る。覚悟を決めて決勝の舞台に立った。

 そして、帰りのバスで私はひとり泣いていた。勝った。甲子園に行ける。それだけでよかった。兄に続くことができた。宇部商での3年間、野球に明け暮れた私に高校生活の頂点。努力は報われることを知った。だから泣けてきた。

 自分には兄が2人いた。長兄は小野田工で甲子園に出場。次兄は宇部商で春のセンバツに出ていた。3兄弟全てが甲子園に出場する。これが私に課せられた宿命。自分でそこまで追い詰め、高校時代を過ごした。弁当を2つ持ち、朝6時には学校のグラウンドに立ち、練習に明け暮れた。家に戻れば裏山を走った。とにかく甲子園に行くにはどうすればいいのか。そればかりを考えての生活。それが報われた夏・・・。甲子園では取手一高に1対2で1回戦敗退。負けたけど私は泣かなかった。球友はみんな泣いていたけど、私は不思議と涙は出なかった。ここから先はプロで・・・。甲子園で負けた時点で目標を切り替えていた。

 いまでこそ県下有数の野球名門校である宇部商だが、私が出た夏が初出場だった。だから私は誇らしい気持ちで過ごしてきた。自分たちが宇部商の甲子園の道を切り開いた。そんな想いとともに、私の野球人生の基盤になった3年間をありがとう。振り替えてそう叫びたい想いが詰まっている。

 念願のプロ野球に入団できた。近鉄バッファローズでそれなりに活躍できた。トレードで巨人にも身を置いた。あらゆる経験をしたプロ人生。へこたれることなく、長い現役生活を送れたのも、高校時代に築いた野球への思いがあったからこそ。いま、振り返るとそういう気がしてならない。

 現在はテレビ、ラジオ野球解説。忙しい日々を送っている。これから先も野球にかかわっていく人生になる。その節目で思い出す宇部商での3年間。この財産を持ち続けてがんばっていくだろう。

「宇部商業高等学校同窓会誌2009」平成21年8月発行より

甲子園野球応援画像

※写真と本文は、直接の関係はございません。


有田 修三(ありた しゅうぞう)氏

 宇部商業高校卒業後、新日鉄八幡を経て昭和47年のドラフト会議で近鉄バッファローズから指名、翌年入団。
 昭和60年巨人に移籍。平成2年福岡ダイエーホークスに移籍したが、翌年現役引退。
 引退後は阪神タイガース、近鉄のバッテリーコーチをそれぞれ4年間務めた。平成12年から朝日放送の解説者を務める。

●ゴールデングラブ賞:2回
●オールスターゲーム出場:2回
●通算1000試合出場:
     昭和59年7月15日(248人目)

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